2019年1月25日より公開されている映画、
『十二人の死にたい子どもたち』
原作は冲方丁さんの作品で、公開前に読みました。
そして監督は『SPEC』や『TRICK』で有名な堤幸彦さん。
観ている人たちに、なんともいえない「違和感」を与える映像の作りがすごく好きなのですが、『十二人の死にたい子どもたち』でもその空気感はぴったりでした。
しかし、やっぱり小説よりもギュッとしている感があったんですよね。
今回は、『十二人の死にたい子どもたち』の原作小説を読んだからこそ感じた、
原作と映画の違いをネタバレを交えつつご紹介したいと思います!
目次
『十二人の死にたい子どもたち』あらすじ
「集い」と呼ばれる集団安楽死の会。
何百問という質問に答え参加者となった12人の子どもたちは、
主催者の指示に従いとある廃病院へ集まります。
参加者の証として、金庫の中から番号の書かれた札を1枚づつ取り、最後の寝床となる「集いの間」に入ると、
そこには既に1人の少年がベッドで寝ていました…
つまり、この「集い」には13人の子どもたちがいるということ。
そして浮かび上がってきた、他殺の疑い。
はたしてこのまま安楽死を実行すべきかどうか?
きまりが「全会一致」であるために、
彼が誰なのかをはっきりさせてから決行すべきと考える子ども
とにかく早く決行したい子ども
発見時に他殺と断定されたくないために決行を拒む子ども
様々な思いが交錯しながらも、議論や推理を重ねて明らかになっていく、
子どもたちの死にたい理由。
はたして、子どもたちはこの「集い」にどのような答えを見出すのか…
原作との違い1:子どもたちが動機をすぐ明かす
まず観ていて一番に気になったのが、子どもたちが自分の死にたい理由をサクサク語っているところなんですよね。
セイゴ(10番)は、原作どおり早い段階で「母親の手に保険金を渡さないために」ということを明かすのですが、
他の子どもたちも、全員に対しては語らないけど、それぞれの背景をあまり躊躇せずに話すんです。
シンジロウ(3番)にいたっては、「病気で末期状態になる前に自分で選びたい」ということを印象づけるかのように、わざわざ薬の副作用で髪のない自分の頭を見せていたし。
シンジロウ役の新田真剣佑は、スキンヘッドでもイケメンでしたw
原作序盤では、それぞれが初対面ということもあるし、
どこか「どーせ目的は一緒だから」みたいな空気があって、あまり他人に気持ちを語ろうとしなかったんですよね。
心の中ではうざいなーとかバカみたいとか思ってるんですけど、お互いが不必要に関わろうとしない、冷めた感じです。
2時間という映画構成の問題もあると思うんですが、
「おいおい、そんなカンタンに言っちゃうのかよ」
とは感じました。
それぞれ、本人なりにすっごく重たい理由があって、覚悟を持って「集い」に来た雰囲気が原作にはみてとれたので。
まぁ、映画の方を観て「あー、確かに現代っ子ってこんな感じかも…」という気もしたので、そこまでの違和感はなかったですけどね。
原作との違い2:メイコの性格が最初からキツい
メイコ(6番)の性格は、原作とかなり違いました。
原作では、「ですよね?」「した方がいいですか?」って感じで、相手に依存したり同調しようとする気弱な性格でした。
まぁ、後半はノブオ(9番)を階段から突き落としたことを隠したくて、
また、決行を遅らせている子どもたちを追い出したくて、攻撃的になっていましたが…
映画では、もうしょっぱなっから気の強い感じでガンガンいくんですよ。
「あたし、何か間違ってます?そんなワケないわ」みたいなスタンス。
メイコが「集い」に参加した理由は「父親に自分を忘れさせないため」なんですが、要するにファザコンなんですよね。
メイコの父親は、メイコが幼いころに離婚しています。
このときに父親が「母親を追い出した」と言ったことから、メイコは「自分は選ばれた」と思ったのでしょうね。
その後、父親は何人もの女性を継母として迎えましたが結局追い出したようで…
(描かれていないけど、もしかしたらメイコが追い出してるんじゃないかとも思った)
「選ばれている」という自信のようなものが、映画のメイコのハキハキした強い言動に現れているなぁと感じました。
メイコの「依存する性質」や「捨てられたくない感」は原作の方が感じられましたが、
個人的には、参加理由を考えると、映画の方が偏愛的で視野の狭い感じがしてしっくり来ましたね。
原作との違い3:アンリが割と人間的
アンリ(7番)にとっては、安楽死を決行することが最重要(ただし強行ではなく、合理的に)
だから、原作では理由を語るとき以外は、そうそう感情的ではなかったんです。
でも映画では、
セイゴがたばこを吸おうとして「やめてよ!」と少し語調を荒げたり、
メイコが「集いの間」のドアを塞ごうとするのを駆け寄って止めたり
と人間味があるというか、感情を見せていました。
まぁ、たばこに対して嫌悪感が大きいのは「ネグレクトな母親のタバコの火の不始末で大やけどを負い、弟も亡くしたため」だし
ドアを塞ぐのを阻止しようとしたのは、「ノブオ(9番)が「集いの間」に戻るのを待っていたから」なんですけどね。
また、アンリの参加理由も原作とは少し違います。
原作だと、「薬物中毒の母親から生まれた先天梅毒児で、”子ども自身が望まぬ誕生”を防ぐためには、不妊措置が普及すべきだと世間に訴えたいから」
というドチャクソ論争になりそうな理由で「集い」に参加していました。
映画では「ネグレクトに苦しむ子どもをこれ以上増やさないために…」と、原作に比べてもう少し分かりやすい理由になっています。
(タバコによる火事も、映画のみの設定)
その点では映画の方が、現代社会に通づるようなリアルさがあるなぁと感じましたし、
訴えたい思いが強いからこそ「集い」のために動く姿は、本当に人間的で意思の強さが感じられるものでした。
杉咲花さんの演技力やっぱりすごい…!
でも、だからこそ「今回の」決行は諦めたけど、次回も参加しようとしてるんでしょうね。
ホント最後まで「死にたい」だったのは、唯一アンリだけだったんですが
「じゃあなんで最後に『集いを中止にするべきだと思う人』の問いで手を上げたんだよ?」と思っちゃいました。
合理的なアンリのことだから、「これ以上話してもムダだ」と悟ったのかな…
原作との違い4:スマートに進むので観やすい
13人目のゼロ番は、自分で歩くことが出来ませんでした。
だからこそ、「誰が殺した?」だけでなく「誰が連れてきた?」という点も疑問だったわけですが
ゼロ番が寝ているベッド横にあった車椅子のことには触れませんでした。
原作だと、リョウコ(4番)が配慮して運んでいたのですが、
これは疑惑を色々な子どもたちに向けるための原作者の意図だったのかなと感じました。
また、会場の病院についた時間や番号札を取った順番について、小説だと事細かく描写されているのですが、
映画では「…こんな感じかな」と、シンジロウがホワイトボードにそれらの順序を書き終わったシーンから始まっています。
正直、この事件の時系列は原作も映画もかなり混乱しやすいので、そういった煩雑な部分を削ってくれたのは見やすさがありました。
エンドロールで、時系列順に出来事をすべて公開しているのもそういう配慮でしょう。
原作との違い5:病院が産婦人科じゃない?
「集い」の会場が廃病院であること、これにはとても大きな意味があります。
主催者であるサトシ(1番)の父親が、生前に経営していた病院なのですが、
原作では、産婦人科・小児科・内科の総合施設であったと書かれているんです。
建物の外観にも、母親が子どもを抱く姿が描かれていたり…
「子どもが生まれる場所で子どもが最後を迎える」
なんて、ちょっと皮肉も込められているのかな、と感じていたわけですが。
映画では、病院の入り口に『野河記念病院』と表記されているだけなので、言い切れませんが…総合病院のような印象を受けました。
まぁ、これはロケ地として「ぱっと見て分かるような産婦人科病院がなかった」っていうのが理由だと思います。
それでも、病院の外にあるモニュメントや「集いの間」の前にあった絵画には、人型の身体部分に空洞があって、そこにもうひとりの人型のような…
母親と胎児をイメージさせるような、モチーフがありました。
原作と映画で場所の雰囲気は違っても、そのイメージを残そうとしているあたり、
『十二人の死にたい子どもたち』という作品は
親(大人)と子どものつながり
もテーマにしているのではないでしょうか。
あと、映画では、『野河記念病院』の「記」から「己」が消えているのも気になりました。
【考察】映画『十二人の死にたい子どもたち』病院名で欠けた「己」の意味は?ロケ地の病院はどこ?
原作との違い6:子どもたちの希望が伝わりづらい
ゼロ番についての謎を明らかにする中で、
それぞれの思いを知った結果、子どもたちは集団安楽死を中止しました。
みんながそう決めたのは、アンリの「生まれてこなければよかったと思うでしょ?」といった意図の問いかけ。
「いじめ」が理由だったケンイチ(2番)
「好きなバンドのメンバーの後追い」をしたかったミツエ(3番)
「虚像ではなく本当の自分として終わりたい」と願った女優・リョウコ(4番)
「薬を飲んでも悪くなる病気(実は親にそう思い込まされていた)にうんざり」だったタカヒロ(8番)
「いじめの報復で人を殺してしまったヒミツから開放されたい」ノブオ(9番)
「知り合ったオヤジからヘルペスをうつされ、治らないことを悲観した」マイ(11番)
「兄を植物状態にさせた負い目から楽になりたかった」ユキ(12番)
そして、シンジロウ・セイゴ・メイコも
アンリ以外の子どもたちは「生まれなければ…」という気持ちがなかったことに気づいたのです。
中止したことで、最後に病院の外へ出ていくときの表情はみんな少し晴れやかでした。
しかし原作では更に、救いを感じさせる情景が描かれています。
シンジロウは、ケンイチ・セイゴ・ノブオ・タカヒロに「自分の親は警察官だから、助けになれるかもしれない」と連絡先を伝えました。
またセイゴもケンイチに「お前をいじめてるやつになしつけてやるよ」と力を貸そうとします。
リョウコは、父親に依存するメイコを反面教師に、親からの独立を考えるようになりました。
そして、メンバーに対してそれぞれがお礼を言っていくんです。
子どもたちがぶつかっている問題を、安楽死以外の方法で解決できそうな希望を感じたんですよね。
それぞれに他人を気にする余裕が出来たというか。
当初はお互いが心を開いていなかったこととのコントラストが、すごくはっきり出ている「集い」の最後でした。
映画では割とみんなコミュ力高かったし、そのへんを描く意味なかったんだろうなー。
原作との違い:小ネタ
ここでは、ストーリーに直接関わりはないけど「あ、違うな」と思った点をピックアップしています。
ゼロ番が飲んだとされる薬の種類が違う
原作では、たくさん飲むと筋肉が溶けて激痛を伴うタイプの薬。「激痛の後も見られず、キレイな姿でベッドにいるのはおかしい」とシンジロウが指摘。
映画では、薬の量を見て「致死量ではないのが不自然」という指摘がされた。
安楽死アイテムを全員が集めてくる
感想・ネタバレまとめ
原作で大切にしているのは、子どもたちの心の変化だったと感じています。
映画ではそういった部分が詳細に描かれていないものの、
子どもたちそれぞれのキャラクタはとても分かりやすく、スピード感のある展開はとても見応えがありました。
何よりストーリーのわかりやすさがあるのは、圧倒的に映像だと思います。
それぞれの楽しみ方があるので、ぜひどちらもみてほしいです!!